【夏休みの宿題】 物語的視点で見る狂気について

考察

はじめに

RIRAです。夏休みが暇なので、物語的視点で見る狂気についての考察を書きたいと思います。

なんでこんなものをテーマに?

何でこんなものをテーマにしようと思ったかというと、アニメやマンガや映画(大抵深夜アニメ)のクライマックスシーンにおいて、個々の信念が元になっている場面が非常に多いなと思ったところです。


じゃあ、その信念って何でもっているの?その信念ってどこから出てきたの?


僕にはそれがよく分かりませんでした。なのでまずそこに興味を持ちました。

ネット上ではアニメ、マンガなどで様々な解釈の考察がなされていたりしますが、それはあくまで解釈。本質的な正解ではありません。そのアニメ、マンガなどの作者も読み手(見る側)の解釈に委ねている場合も多いです。(勿論作者がそれについて言及している場合もありますが。)

では何故個々のキャラクター、もしくはキャラクター達がある一定の信念をもって行動しているのか?色々考えた結果、僕が辿り着いた答えは狂気でした。

そして、狂気について考えていたり調べていたりすると


「あれ、これ物語製作とかゲームシナリオ製作とかに役立ちそうだな。」


と思う所が多かったんです。なので、せっかくだからこのようなテーマで記事にしようと思いました。またこのような視点での考察記事は、自分で調べてみた所、そこまで十分に考察されている記事がネット上に無かったので、このような記事を書くことには一定の需要があるかもしれない、と思った事も理由の1つです。

ただでさえ、狂気というものはよくわからないもの。それ自身がどのように成り立っているのか、それを基にどのように物語製作、ゲームシナリオ製作に利用する事が出来るのか。僕のこれからの説明でこんな考え方もあるんだと思って頂けると幸いです。

狂気って何?

まず最初に、狂気ってそもそも何でしょうか?

困ったときのコトバンク。

ブリタニカ国際大百科事典

狂気は人間の精神病理学的現象として隔離ないし治療の対象として考えられる。他方,古代ギリシア以来,狂気は創造性との関係において重視されてきている。プラトンは神によって授けられた狂気はよきもののなかでも最大のよきものであるといっている。

デジタル大辞泉

気が狂っていること。また、異常をきたした精神状態。「狂気の沙汰」

世界大百科事典 第2版

狂気とは,字義通りに解釈すれば〈気の狂っていること〉〈気の違っている状態〉を指し,こんにちの精神病一般と変わらなくなるが,精神病が近代医学により疾患として認知された学問的概念であるのに対し,狂気は学問的に規定される以前の広義の精神変調状態を漠然と総称する世俗的概念で,厳密な定義の対象になりにくい。そもそも狂気が治療すべき自然的な疾患としてでなく,なにかしら超自然的な事態として,または正気の人間には得がたいなにかをもたらしてくれる神聖な現象として人々から迎えられたことには,多くの根拠がある。

とりあえず3つ挙げてみましたが、何がなんやらという感じではないでしょうか?

実際に「狂気」という言葉で調べてみても、定義や説明がバラバラ。感想という領域を出ていません。しかしながら、学問的、精神的な側面から見て一般的に「狂っている状態」「精神異常の状態」という事はとりあえず出来そうです。なので、とりあえずそのように「狂気」をイメージしてください。

厳密に考えるならばこのように言葉を定義する事はタブーかもしれません。しかしながら今回の記事の目的はあくまで、物語的な視点で見る狂気についてお話する事です。なので狂気という言葉自体に言及する事はここまでにしておきたいと思います。

物語的な視点の狂気

さて、ではどのようにして物語的な視点での狂気が見られるのでしょうか?

ここで1つ物語的な視点の狂気が分かりやすく提示されている作品を紹介したいと思います。それがこちら。

417ex0S7+qL.jpg

太宰治の「走れメロス」です。学生時代に国語で習ったり、読書感想文を書いたりした人も多いのではないでしょうか?一般的にこの作品、伝えたかった事のテーマとして「友情」「約束」「信頼」なんかがよく挙げられます。しかしながら、今回はこの一般的に伝えたかったテーマとは真逆の「狂気」について、この作品を基に考えてみたいと思います。

この物語のあらすじ

走れメロス/太宰治 の簡単なあらすじ

知らない方もいるかと思うので、一応あらすじを分かりやすくまとめている記事を参照しておきました。

※一から丁寧に説明してしまうと、際限が無くなってしまうのでこのようなリンクを張る程度にとどめておきます。

THE・王道って感じの物語ですよね。後、結構ゲームっぽい感じもあります。

この物語から分かる狂気の部分

さてこの物語、どの部分に狂気が入っていると思いますか?それは物語終盤で垣間見る事が出来ます。

では具体的にどの部分にその狂気があるのか?

内容を軽く整理するために、少し前の部分から説明します。


  • メロスは氾濫した川を泳ぎ切り、山賊から逃げ切り、午後になって激しく照りつける太陽にめまいを起こし、倒れてしまいます。

  • この後メロスは立ち上がることすらできないほど疲れ切り、体力を消耗し、弱気になり、走る事を諦めてしまいます。

  • しかしながらメロスは湧き水の音が聞こえたので湧き水の所へ行き、湧き水を飲むと、疲れが回復し、あきらめかけた希望も湧いてきました。そして城へと再び走り出します。そしてここで補足なのですが、この再び走り出す時に間に合うか、間に合わないか、で言うと間に合う事がほぼ無い絶望的な状態でした。


そしてその後に走り続けているこの部分こそ、狂気を垣間見る事が出来る部分です。

この走り続けている時にメロスが言い放った言葉で、次の様な言葉があります。

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。 私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」

※フィロストラトスとは、メロスに対し走る事を引き留めたメロスの弟子の事です。

※信じていられる、とはセリヌンティウスに信じてもらっているからという意味です。

言葉だけを見てみると、何となく狂気とはほど遠い文章なのではないかと思うかもしれません。ちなみにこの部分、狂気意外にも様々な解釈がある部分なんですよね。まあそれは置いておいて、とりあえず順を追って考えてみましょう。

整理

整理しましょう。


Q,そもそもメロスは何のために走っていたのでしょうか?

  • A,王の元で人質になっているセリヌンティウスを助けるため。

Q,何故セリヌンティウスは人質になっていたのでしょうか?

  • A,処刑されるメロスが3日間猶予が欲しいと言い、その3日の猶予の代償としてセリヌンティウスを処刑の人質にしていたため。

Q,何故メロスは処刑されるのでしょうか?

  • A,人を信じる事の出来ない王に歯向かったから。

こんなところでしょうか。

この整理を基にして、もし仮にメロスが3日の猶予の間に王の元へ着くことが出来なければ、


  1. セリヌンティウスが処刑されてしまう。(セリヌンティウスとの約束が守られない)
  2. 王との約束が守られない事になり、人を信じる事が出来ない王に何の影響も与える事が出来ない。

この2つの弊害が起こってしまう事になります。

ではメロスはこの2つの弊害を解消するためにずっとセリヌンティウスの元へ走り続けていたのでしょうか?

実はそうではないのです。

物語的な視点の狂気に至るまでの過程

ではどのタイミングまで、メロスは先ほど挙げた2つの弊害を解消するためにセリヌンティウスの元へ走り続けていたのでしょうか?そのタイミングは


  • メロスが立ち上がることすらできないほど疲れ切り、体力を消耗し、弱気になり、走る事を諦めてしまうタイミングの前まで

ここまでです。では何故このタイミングまでだと言えるのでしょうか?

何故かというと、そのタイミングの後は、2つの弊害を解消する事を諦めてしまっているタイミングだからです。それもそのはず。この時点で王の元に辿り着く事はほぼ絶望的な状態。難しい言葉で言うとこの状態は「善意志の消滅」の状態です。

物語的な狂気の説明のために先に解説しておくと、

2つの弊害を解消するためにセリヌンティウスの元へ走り続けていた

は、目的と手段に分ける事が出来ます。この文言を用いれば、

目的

  • 2つの弊害を解消する事。

手段

  • セリヌンティウスの元へ走り続ける事

この様に分類する事が出来ます。そしてこれは「仮言命法」と呼ぶことが出来ます。

仮言命法って一体何なんでしょうか?コトバンクで参照しておきます。

大辞林 第三版

目的達成のための仮定条件を含んだ実践上の命令。例えば「もし長生きを欲するならば,健康に気をつけよ」など。仮言的命令。仮説的命令。

ものすごく端的に言えば、目的があるから、手段が良いと判断されている状態の事です。

さて、これらの説明を用いつつ、話を戻します。


2つの弊害を解消する事を諦めてしまった直後の状態。


この状態になったことは上記で述べた説明を用いれば、極めて自然だという事が出来ます。なぜならば、そもそもの目的が意味を成さなくなっているからです。何故目的が意味を成さなくなっているかというと、王の元へ辿り着く事が最早絶望的だからです。

そして逆に、このタイミングの前までは2つの弊害を解消するためにセリヌンティウスの元へ走り続けていたという事が出来ます。

2つの弊害を解消するために走り続けていたメロスはその後どうなってしまうのでしょうか。

物語的な視点の狂気の発生

ではここで、物語的な視点での狂気が発生しているタイミングをもう一度確認しておきましょう。前の文章のをもう一度用います。

メロスは湧き水の音が聞こえたので湧き水の所へ行き、湧き水を飲むと、疲れが回復し、あきらめかけた希望も湧いてきました。そして城へと再び走り出します。

メロスが湧き水の音が聞こえたので湧き水の所へ行き、湧き水を飲むと、疲れが回復し、あきらめかけた希望も湧いてきた後、城へと再び走り続けている部分全てです

では、この時のメロスは走る事を諦める前の状態に比べて、どのような状態に変化したのでしょうか?

再び走り出す前と後で比べてみます。

走る事を諦める前まで

  • 2つの弊害を解消するために走り続けている状態。(仮言命法)
  • 目的〇
  • 手段〇

走る事を諦めた後から

  • ただ、走り続けている状態(???)
  • 目的×
  • 手段〇

走る事を諦めた後、メロスはもう一度走り出しますよね。

では、走る事を諦めた後にもう一度ある、目的無くただ走り続けている状態ってどういう状態なんでしょうか?

この状態を説明する言葉で適切なものとして「定言命法」という言葉があります。

では、定言命法とは一体何なんでしょうか?これもコトバンクで参照しておきます。

大辞林 第三版

人間の意志を制約する道徳法則のうちで,人間一般に無条件に当てはまるものをいう。仮言命法が「もし幸福を望むならば,云々の行為をせよ」と条件付きであるのに対し,端的に「何々せよ」と義務を命ずる。カントによれば,道徳的命法は何かの目的のための手段であってはならないから,定言命法であるとされる。定言的命令。無上命法。

ものすごく端的に言えば、目的と手段が一致している「~せよ。」という無条件の命令であると言えます。


何の目的もなく、訳の分からない、何のために走っているのか分からない「~せよ。」という手段に無条件に従っている状態。つまり走る事が目的であり、手段になっている状態。


この状態は「定言命法」を基に行動している状態であり、「物語的な視点での狂気」の一部という事が出来ます。

物語的な視点の狂気の全貌

定言命法が「物語的な視点での狂気」の一部という事は分かりました。しかしながら、「物語的な視点での狂気」の全体が分かっていません。

では「物語敵な視点での狂気」の全体とは一体何なんでしょうか?

それは、定言命法にキャラクター(ここでいうメロス)が従っている状態にまでさせるための一連のプロセスの事です。

「物語的視点での狂気」は定言命法を基に行動している状態を生み出す前の一連のプロセスを踏まえている必要があるんです。

何故でしょうか?

それは元々は別々であった目的と手段を、手段としての目的に合致させる過程としての変化が必要だからです。その様な意味で「定言命法」では無く「物語的な視点での狂気」という表現が生まれます。

それでは物語的な視点での狂気の全体が分かったところで、メロスが発した特徴的なセリフももう一度前の文章から用いてみます。

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。 私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」

※信じていられる、とはセリヌンティウスに信じてもらっているからという意味でしたね。

では今度は、このセリフからこれは「物語的な視点で見る狂気」では無い!という反論を想定して、その反論に応答していきたいと思います。

メロスのこのセリフ、本当に「物語的な視点での狂気?」

こんな反論がもしかしたらあるかもしれません。

反論その1

  • 信じられている事が目的になっているから、そもそも定言命法じゃないじゃないか!

反論その1【回答】

  • なぜこれが定言命法かというと、信じられているか、いないかが最早目的にはなり得ないからです。なぜかというと、現実問題として間に合うか、間に合わないかで言うと、間に合う事がほとんどない絶望的な状態だからです。よってそのような状態の中で何かを信じているか、信じていないか、という事象は目的にはなり得ません。なのでこれは定言命法です。

こんな反論もあるかもしれません。

反論その2

  • 何かもっと恐ろしく大きなもののために走ってるって言ってるじゃないか!目的があるから定言命法じゃないじゃないか!

反論その2【回答】

  • 1番難しいんですけど、ぶっちゃけ「何かもっと恐ろしく大きなもの」を何と解釈するのかによります。自分がこれまで上記で述べてきた論理で解釈するのなら、目的と手段が一致している状態が、何が何だか分からず「もっと恐ろしく大きなもの」の様に見えてしまっているだけ、というのが最適解かなと思います。なので目的は無い事になります。よって定言命法です。

大きな反論としてはこの2つではないでしょうか?

まとめ

そして僕がこれまでに述べてきた論理、また反論に対しての【回答】で述べた論理から、上記の様なセリフを発した時のメロスは、走る事が目的であり、手段である状態なわけです。(反論その2の回答は暴論スレスレですが...)よって物語的な視点での狂気が発生していると言えますね。

終わりに

いかがだったでしょうか?暴論スレスレな所も多々見受けられるとは思いますが、きちんと納得出来るように書いたつもりです。何か疑問点、矛盾点などがあれば気軽に質問してください。

またカント倫理学についての書籍と、走れメロスを読んで頂ければもっとこの記事の内容を深める事が出来るかなと思います。暇がある方は是非読んでみてください。また僕自身暇があれば、


「物語的な視点で見る狂気について【応用編】」


として、実際に僕が記事中で述べた論理を基にどのようにシナリオ製作、またゲームシナリオ製作に応用出来るかを記事にしたいと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

※カント倫理学についてはかなり端的に解釈しているので、もしかしたらカント倫理学の僕の解釈自体で齟齬が生じている箇所があるかもしれません。

Only registered users are allowed to comment on the entry. Please log in to comment.